東畑謙三についてAbout Kenzo Tohata

東畑 謙三の足跡
東畑謙三
  • 1902年 (明治35年)
  • 三重県一志郡嬉野町生まれ
  • 1926年
  • 京都大学工学部建築学科卒業
  • 1927年
  • 京都大学大学院入学
  • 1929年
  • 外務省嘱託として東方文化学院京都研究所設計に携わる
  • 1932年
  • 東畑謙三建築事務所開設
  • 1951年
  • 組織変更により東畑建築事務所開設、代表取締役に就任
  • 1998年 4月没
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学者一家に生まれ育つ

東畑謙三(とうはた けんぞう)1902年(明治35年)三重県に生まれる。 四兄弟の三男で長兄は文化勲章を受章した農政学者で東京大学教授を務めた東畑精一。次兄速水敬二も京都大学で哲学を修めた学者である。弟東畑四郎は、東京大学法学部を出て農林事務次官を務めた。いわば学者一家に生まれ育つ。

学生時代に建築を志し、外務省嘱託時代に実務に携わる

第三高等学校在学中に、京都ではじめての鉄筋コンクリート造である京都大学建築学科本館を見て興味を覚えたのが建築を志すきっかけとなり、1923年京都大学建築学科に入学する。その後、大学院に進学し「建築学研究」の編集に携わり、L.コルビュジェやテオ・ファン・ドゥースブルフ等を紹介する。大学院終了後、武田五一教授の下で外務省嘱託となり、「東方文化学院京都研究所」の設計に携わる。

欧米建築視察後、30歳の若さにして独立

1932年には欧米の建築を視察。シカゴでアルバート・カーン設計の自動車工場を見学し、その徹底した合理主義の表現に感動する。帰国後、30歳の若さにして東畑謙三建築事務所を開設、岳父である岩井産業創業者「岩井勝次郎」の支援を得て、数多くの紡績工場の設計を国内だけではなく、中国、台湾、韓国、ボルネオなどで行う。順調に業績を重ねていくが、終戦直後には設計の仕事がなく、やむなく個人住宅の施工を行う。今まで培ってきた合理的手法を遺憾なく発揮し今で言うプレハブ化工法であるパネル式住宅の供給を通し日本の戦災復興に寄与する。

その後の東畑謙三

時代の安定とともに本来の設計事務所に専念。日本の高度経済成長と波長を合わせ、製鉄工場を主とした産業建築から公共建築、都市再開発に至るまで幅広い建築の設計を通し社会に貢献する。 公職としては日本建築学会理事、日本建築家協会理事、日本建築協会会長、大阪市建築審査会会長等を歴任。1970年に開催された日本万国博覧会では建設顧問・会場計画委員として日本で初めての万国博覧会を大成功に導いた。教育面においても京都大学・大阪大学で長年にわたり講師を務め優秀な建築家の輩出に寄与した。また、業績としては日本建築学会賞・建築業協会賞(BCS賞)等を多数受賞し、その功績を称えられ、勲三等瑞宝章をはじめ数多くの褒章を受けている。 1998年4月29日享年97歳で天寿を全うする。

代表作品

東方文化学院京都研究所(現 京都大学(東小倉)総合研究棟)1932年 京都市左京区

東方文化学院京都研究所(現 京都大学人文科学研究所)

東方文化学院京都研究所は武田五一の下で東畑謙三初めての作品である。京大の建築学研究誌でコルビュジエを紹介していた東畑謙三はモダニズム建築に傾倒していたが、研究所の美術の専門家浜田耕作教授の示唆によりスパニッシュでロマネスクの雰囲気を漂わせる建築とする。細部にいたるまで心血が注がれており、東畑謙三によるデザインの宝庫といえる。

東方文化学院京都研究所(現 京都大学人文科学研究所)

関西ペイント旧本社ビル

関西ペイント旧本社ビル1950年 大阪市中央区

外壁を竪に分割するモザイクタイルの金目地のディテールはゼツェッションのオットーワグナーに東畑謙三が共感していたことを思い起こさせる。ファサードの三方をかたどる石の壁は外壁に奥行きを与え、空間性を創り出している。エントランスは壁に穿つ形をとり大きく門戸を広げない。アシンメトリーな窓の配置を左端で壁から突き出された窓の存在感と穿たれたエントランス、それの右に置かれた壺の位置で微妙にバランスさせている。静謐な中にも動きのある、優れたデザイン感覚を見ることができる。


寧楽美術館

寧楽美術館1969年 奈良市

奈良東大寺近傍にあるからだろう、むくりのある大和屋根をデザインモチーフとしている。屋根の中央にたった一つ切り取られたスリットが周辺に何ともいえない緊張感を与える。このスリットがこの建築の全てである。窓に設けられたグリルのアイアンワークは立体的な抽象絵画の趣を見せる。


辰馬考古資料館

辰馬考古資料館1977年 兵庫県西宮市

両妻のウダツ壁が屋根の頂部に立ち上げられた壁につながり、三方で囲まれた領域を屋根の上に創り出す。ファサードに見られたのと同質の空間性が屋根にも現れている。ファサードであれ、屋根であれ、タイルや瓦という物そのものがつくる面の外側に空気の層をつくるということだろう。建築は内部に空間をもつものであるが、外部をさらに空間でつつむという空間の多層構造がここにある。RAUMを「空間」と初めて訳出した東畑謙三による、建築の本質が空間であることの表明だったとも思えるのである。


壺中居

壺中居1973年 東京都中央区

マンサード屋根の形態をマッシブな扱いとしていることで全体的な印象を重厚なものとしている。各階にあけられた窓の形状をそれぞれ異なるデザインとし、スタティックな建築に動きをつくりだしている。とりわけコーナーに設けられたバルコニーのデザインと1階のセットバックが単なる重厚さではない軽みを与えている。


繭山龍泉堂

繭山龍泉堂1960年 東京都中央区

メインとなるファサードは関西ペイントと同様、三方を壁で囲み奥行きと空間性を感じさせる。エントランスもさりげなく壁に開けられて、ガラス戸の前に設けられたグリル戸のデザインだけがエントランスであることを演出している。


受賞歴・出版物
略歴
1932年(昭和  7年) 東畑謙三建築事務所開設、建築設計監理業務に従事
1941年(昭和16年) 京都大学講師委嘱
1948年(昭和23年) 大阪大学講師委嘱
1951年(昭和26年) 組織変更に依り株式会社東畑建築事務所を開設、代表取締役に就任
1955年(昭和30年) 社団法人日本建築学会理事
1960年(昭和35年) 社団法人日本建築家協会理事
1964年(昭和39年) 財団法人日本建築総合試験所副理事長
1964年(昭和39年) 社団法人日本建築協会会長
1965年(昭和40年) 万国博覧会会場計画委員
1967年(昭和42年) 万国博覧会建設顧問
1968年(昭和43年) 社団法人日本建築家協会終身正会員
1969年(昭和44年) 大阪市建築審査会会長
1971年(昭和46年) 社団法人日本建築協会名誉会長
1972年(昭和47年) 社団法人日本建築学会名誉会員
1973年(昭和48年) 財団法人沖縄国際海洋博覧会協会建設顧問
1974年(昭和49年) 日中建築技術交流会副会長
1982年(昭和57年) 取締役会長に就任
1997年(平成  9年) 取締役名誉会長に就任
受賞歴
1958年(昭和33年) 建築行政に尽した功績により大阪府知事表彰
1960年(昭和35年) 連築関係功労者として建設大臣表彰
1961年(昭和36年) 建築業協会賞受賞(作品名 大阪営林局庁舎)
1962年(昭和37年) 藍綬褒賞受賞
1965年(昭和40年) 建設省住宅局長賞受賞(作品名 甲南大学校舎)
1969年(昭和44年) 日本建築学会賞受賞(作品名 大阪駅前市街地改造事業)
1970年(昭和45年) 建築業協会賞受賞(作品名 鈴鹿市民会棺)
1971年(昭和46年) 建築行政に尽した功績により大阪市長市民表彰
1972年(昭和47年) 勲三等瑞宝章受賞
1972年(昭和47年) 建築業協会賞受賞(作品名 日商岩井㈱大阪本社)
1980年(昭和55年) 建築業協会賞受賞(作品名 ホリデイ・イン南海・大阪)
1981年(昭和56年) 日本建築学会賞受賞(作品名 筑波研究学園都市)
1989年(平成元年) 紺綬褒賞受賞
出版物
【待てしばしはない-東畑謙三の光跡-】布野修司監修?株式会社日刊建設通信新聞社

東畑謙三と東畑建築事務所の光跡を追いつつ、東畑謙三の場合における個と設計行為の関係を明らかにしている。
布野修司監修 株式会社日刊建設通信新聞社発行

【ねずみ色からぼたん鍋まで】りーち出版

毎年の干支に因んだ東畑謙三の随想集(23編)
建設業界新聞の新春随筆として掲載された記事など、1972年(S47)から約20年間分を収録。
リーチ出版発行